LOGIN◇ 午前の診察が終わるころ、ヴィルレオはようやく客室を出た。 別邸の回廊には、朝のやわらかな光が斜めに差し込んでいる。木の床は王都の石よりもずっとやさしく、足音を吸い込みながらも完全には消さない。だから、自分がここを歩いていることが妙に現実味を持って耳へ返る。 リュゼリアの寝室の前を通りかかると、ちょうどクレメンス医師が出てきたところだった。「旦那様」 医師は一礼し、低く声を落とす。「今朝は比較的落ち着いておられます。昼前に少しだけ庭へ出られるかと」「咳は」「あります。ですが昨夜ほどでは」「そうか」 それだけのやりとりで終わる。以前なら、ここで「では頼む」としか言わなかっただろう。だが今は、医師の一言一言に、彼女の呼吸の浅さや熱の上がり方まで想像してしまう。 守るつもりだった過去を思い返すたび、それらは全部ただの放置だったのだと悟る。 ならば今、何をすればいい。 触れたいのに触れられない。話したいのに、言葉はいつも遅い。謝っても届かない。変えると言っても、彼女の期待はもうそこにない。 それでもなお、彼は歩き出すしかない。 遅いと知りながら、ようやく自分の愛が何をしてこなかったのかを直視した以上、立ち止まっていることだけはもう許されない気がした。 ◇ 昼前、リュゼリアはまた庭へ出た。 籐椅子へ座り、膝に毛布をかけ、白と青の花壇を眺めている。今日の風は昨日より穏やかで、陽も少しだけあたたかい。彼女はまだ病んでいる。頬は白く、肩も細い。だが、こうして花を見る時だけ、目の奥へほんの小さな柔らかさが灯る。 ヴィルレオは少し離れた回廊の影から、その姿を見ていた。 すぐには近づかなかった。 近づけば、また言葉を交わさねばならない。彼女は応じるだろう。穏やかに。けれど、昨夜までのことを思えば、ただ近づくこと自体が彼女の穏やかな時間を乱す気がした。 彼は回廊の柱へ片手をかけ、その細い背を見つめる。 愛していたのに。 今になってそれを認めたところで、彼女が手にしたこの静かな午後へ、自分は何を差し出せるのだろう。 何もないのかもしれない。 せめて、邪魔をしないことだけが今の自分にできることかもしれない。 その考えが、また苦い。 守るつもりで遠ざけ、結局放置した過去を経て、今また「邪魔をしないことしかできない」と思
ヴィルレオは結局、その茶をぬるくなってから飲んだ。菓子も夜になってからひとつだけ口にした。味は悪くなかった。いや、その時ですら「妙にちょうどいい塩気だ」と思った覚えがある。 なのに、翌朝にはもうそのことを忘れていた。 今ならわかる。 あれは単に茶と菓子を運んできたのではない。 彼女は、不機嫌な彼へ“関わろう”としたのだ。 気遣いではある。だが、それだけではない。雨の暗い日、ひとりで書斎へ籠もる夫へ、自分の存在を差し出したのだ。 それを、自分は「いらない」の一言で返した。 守るために距離を取ったのではない。 ただ自分の機嫌の中へ彼女を入れたくなかっただけだ。 そうやって拒まれた小さな関わりが、どれほど積み重なっていたのか。 いまなら、恐ろしいほどよくわかる。 ◇ さらにもう一つ、もっと静かな記憶がある。 結婚して二年ほど経った頃、王都の寝室で深夜に目を覚ました時のことだ。仕事が遅くなり、自室へ戻ったのはかなり遅い時間だった。ヴィルレオは疲れていて、明かりを落とさせ、上着もそこそこに寝台へ入った。 しばらくして、隣の内扉の向こうでごく微かな物音がした。 紙をめくる音だったかもしれない。 あるいは、水差しの蓋を置く音。 それでヴィルレオは目を覚ましたのだ。 向こうの部屋には、まだ灯りが残っていた。扉の下から細い光が漏れていたのを覚えている。あの時、ヴィルレオはほんの少しだけ考えたのだ。 まだ起きているのか、と。 体調でも悪いのか、と。 あるいは、待っていたのか、と。 考えた。 たしかに、そこまでは考えたのだ。 だが次の瞬間、彼はその思考を捨てた。 起きているなら勝手に眠るだろう。 具合が悪ければ侍女を呼ぶだろう。 待っていたとしても、今さら部屋を訪ねて何を言う。 そうやって、全部を自分の外へ置いた。 そして寝返りを打ち、目を閉じた。 翌朝、食堂で見たリュゼリアの目の下には、うっすらと影があった気がする。だがその時も彼は、深く問わなかった。 あれを、当時の自分は「踏み込みすぎない配慮」だと思っていたのかもしれない。 彼女の私的な時間を尊重している。 夜更けに無理に関わらず、休ませている。 そんなふうに。 だが実際はどうだ。 ただ、扉一枚隔てた向こうで起きている寂しさや不安を見ないふりしただけ
◇ 結婚してすぐの頃、王都の大公爵邸での最初の夜会のことを、ヴィルレオは不意に思い出した。 大広間は灯りに満ち、金の装飾が眩しく光り、音楽と笑い声がいくつもの輪になって渦巻いていた。政略上必要な顔ぶればかりが集められた夜会だった。上機嫌な者もいれば、腹の底で別の駆け引きをしている者もいる。女たちは微笑みながら互いの宝石を褒め、男たちはグラスの傾き一つで牽制し合う。 あの場へ、リュゼリアは新しい公爵夫人として立っていた。 白に近い淡い色のドレス。控えめな真珠。まだこの屋敷に慣れきっていない頃なのに、背筋だけは真っ直ぐで、誰よりも綺麗に笑っていた。彼女は挨拶をし、礼を失さず、相手の名も家格も取り違えず、必要以上に喋らず、それでいて「冷たい」と思われぬ程度に温度を足していた。完璧だった。誰が見ても、申し分ない公爵夫人だっただろう。 だからこそ、ヴィルレオは安心したのだ。 こなせると。 この女は、こういう場でもきちんと立っていられるのだと。 安心したあとは、彼はいつも通り、自分の政治的な会話へ戻った。必要な男たちと話し、必要な位置に立ち、必要な牽制をした。彼女のほうを振り返ることはほとんどなかった。 その夜会の終わり頃、一度だけリュゼリアが彼のすぐ傍へ来て、低く言ったのだ。「旦那様、お疲れではございませんか」 当時の自分は、何と答えただろう。 たしか「問題ない」とだけ返したはずだ。 それで終わりだ。 彼女はそれ以上何も言わず、静かに一礼してまた人々の輪の中へ戻っていった。 ヴィルレオはその時、自分の答えがそっけなかったとは少しも思わなかった。むしろ、余計な感傷を入れず、公爵として当然の応対をしたとすら思っていた。 だが今思えば、あの一言は何だったのだろう。 ただの社交辞令だったのか。 いや、違う。 彼女は新しい公爵夫人としてあの場へ立ちながら、それでもなお、夫の顔色を気にして近づいてきたのだ。疲れてはいないか。無理をしていないか。そういう、何でもない小さな気遣いを、自分へ差し出した。 欲しかったのはたぶん、そこでの短い返事ではなかった。 お前も疲れただろう、とか。 少し休め、とか。 あるいは、あとで戻ったら話そう、とか。 そういう、ごくわずかな言葉だったのだろう。 なのに自分は、それをすべて「余計なもの」として切
朝の光は、昨日までと同じように南の別邸へ静かに落ちていた。 湖のほうからくる風はまだ少し冷たい。けれど、真冬のように肌を刺す冷えではなく、どこか薄い水の膜を含んだやわらかな冷たさだ。窓辺のレースがそのたびにかすかに揺れ、館の壁へ白い影を落としている。どこかで水鳥が鳴き、朝の遅いこの館らしく、物音は少ない。起きている人間の数が少ないぶん、一つひとつの気配が遠くて穏やかだ。 ヴィルレオは、その静けさの中で机に向かっていた。 東側の客室に備え付けられた小ぶりの机。王都の書斎に比べれば驚くほど簡素で、筆記具も最低限しか置かれていない。公務を片づけるには足りないが、数枚の書状へ目を通し、返事を書きつけるだけなら十分だった。昨夜は結局ほとんど眠れぬまま朝を迎え、ほんの短く目を閉じたあとでこうして机の前に座っている。 手元には王都から届けられた書類がある。北方からの報告。王城からの催促。領地の会計。どれも見慣れた文字列だ。以前なら、椅子へ腰を下ろした瞬間に頭が自然と切り替わり、必要な案件の順番がすぐに見えていた。だが今朝は、紙の上の文字が妙に遠い。目で追っても、意味が頭へ入ってこない。たとえば「橋梁補修予算」という言葉を読んでも、その向こうにあるはずの数字や季節や人員のことではなく、まるで無関係に、昨夜の扉越しの静けさばかりが蘇る。 愛している。 夜明け前、ようやく自分の感情へつけた名前。 それを認めたところで、何かが軽くなるわけではなかった。むしろ逆だ。言葉を持ったことで、胸の痛みはさらに輪郭を得た。あれほど混ざり合っていた後悔や執着や焦りの底に、本当にあったものがはっきりと見えてしまったからだ。 愛していたのだ、と今ならわかる。 では、なぜあの時間にそれを差し出さなかったのか。 問いはすぐそこへ戻る。 ヴィルレオはペンを置いた。インクの匂いがかすかに立つ。窓の外では、まだ開ききらぬ花壇の白と青が朝の光に触れていた。リュゼリアが植えた花。彼女は今日も少しだけ庭へ出るだろうか。熱はどうか。咳は。昨夜は眠れただろうか。そんなことばかりが次々と頭をよぎり、公務の書類はますます遠のいていく。 机から立ち上がり、窓辺へ歩く。 朝の庭は静かだった。南側の石垣に守られた花壇は昨夜より少しだけ明るく、白いマーガレットの花弁がほんのわずか開いているのが見える。青いネ
必要な時に呼び、必要がなければ黙る。 呼んでも、そこへ自分の気持ちを乗せない。 彼女がその名にどんな期待や喜びや失望を抱いていたか、考えもせずに。 今になって名を大切に思うことすら、彼女から見れば遅すぎるのだろう。 それでも、呼ばずにはいられなかった。 部屋へ戻って扉を閉めると、客室の静けさがまた彼を包んだ。暖炉の残り火はさらに小さくなり、窓の向こうは夜の最も深いところへ沈みつつある。ヴィルレオは机の前に立ち、何とはなしに一枚の紙を引き寄せた。 書くつもりなどなかった。 けれど気づけば、ペン先は勝手に動いていた。 リュゼリア。 紙の上へ、ただその名だけが落ちる。 業務のためでも、返書の宛名でもない。ただ彼女の名を書いたことなど、これまで一度もなかった気がした。書いてしまってから、その文字がやけに生々しく見えて、ヴィルレオはしばらく手を止める。 細い字ではない。彼の字はもともと鋭く、隙がない。だからこそ、その硬い筆跡で綴られた彼女の名が、妙に不器用に見えた。 指先でそっとその字をなぞる。 リュゼリア。 声にしても、書いても、結局行き着くところは同じだった。彼女という存在を考える時、もうそれは役目でも責任でも片づけられない場所へ落ちている。 ヴィルレオは紙を折らず、燃やしもせず、そのまま机へ伏せた。 誰かに見せるものではない。ただ、今夜の自分が何に名前をつけたのかを、せめて自分だけは忘れぬための印のようなものだった。 再び寝台へ横になる。 先ほどまでよりも、呼吸は少しだけ深い。眠気が来たわけではない。けれど、名もない熱に振り回されていた時よりは、苦しさの向きが定まった気がした。 愛している。 その言葉をまた胸の中で繰り返す。 すると今度は、その言葉のあとに彼女の名が続くのが自然だった。 愛している、リュゼリア。 あまりにも遅く、あまりにも届かぬ場所で育ってしまった想いだとしても、それでも確かに彼の中へ根を下ろしている。 眠れない夜にも、ようやく名前がついた。 それは後悔だけの夜ではない。 喪失だけの夜でもない。 彼女の名を何度も呼びながら、ようやく自分の想いの形を知った夜なのだと、ヴィルレオは静かに思った。 遠くで、まだ朝には早い鳥が一声だけ鳴いた。 夜がゆっくり薄れていく気配がある。完全な眠りには落ちなくて
ヴィルレオは眉間へ指を当てた。 愛している。 その言葉がまだ少しだけ重いのは、そこに必ず後悔が混ざるからだろう。純粋な愛などではないのかもしれない、と一瞬思う。もっと泥に近い。遅れ、執着し、失う恐怖に駆られ、ようやく形を得た感情だ。 けれど、だからといって愛ではないとは言えない。 彼女の不在が屋敷を狂わせるから愛なのではない。 彼女が自分を支えていたから愛なのでもない。 そんな理由を抜きにして、彼女がいまここで眠っていること、少しずつ息をしやすくしていること、明日どんな顔で花を見るか、その一つひとつに胸が動く。 その動きに、もう別の名前を当てはめることはできなかった。 愛しているのだ、と不意に思った。 その言葉は、昨夜までならまだ胸の内で輪郭を持たなかった。愛、執着、責任、後悔。そのどれもが混ざり、どれも言い切れずにいた。けれど、今こうして彼女の名だけを小さく呼んでいると、そのどれとも少し違う熱の在処がわかる。 彼女の不在に屋敷の呼吸が狂うからではない。 彼女に支えられていたと今さら知ったからでもない。 もちろんそれらもある。だが、それだけならこんなふうに夜の廊下で、扉越しに名を呼んだりはしない。 彼女の息の浅さに胸が痛む。 笑うと安心し、遠くなると怖くなる。 土に触れて少しだけ柔らかくなった顔を見て、理由もなくほっとする。 咳き込めば喉の奥がつらくなり、花のことを話す横顔を見るだけで、明日もう少しだけ咲くだろうと思いながら一日を終えたくなる。 そういうものの名前は、たぶん、愛なのだ。 遅すぎるとわかっている。 あまりにも遅い。彼女が欲しかった時間の中には、これはなかった。今になって自分がそれを認めたところで、彼女が失ったものは戻らない。謝罪にもならず、埋め合わせにもならず、ただ自分の中で遅れて芽吹いただけの感情だ。 それでも、もうそれを否定はできない。 ヴィルレオはゆっくりと息を吸った。 冷たい夜の空気が肺へ入る。扉の向こうからは何も聞こえない。だがそこに彼女が眠っていると知っているだけで、自分の呼吸まで少し変わるような気がした。「……愛している」 声にしたのは、ほとんど無意識だった。 あまりにも小さく、扉一枚どころか、自分の胸の内にしか響かないような声。けれど、その一言を口にした瞬間、何かが逃げられぬ形で自分